山村から明日の医療を描く
佐久総合病院 医師 色平哲郎さんの記事
朝日新聞 2008年9月13日(土) フロントランナー(文・山田厚史 写真・会田法行)
山村から明日の医療を描く
JA佐久厚生連 佐久総合病院 医師 色平哲郎(いろひらてつろう)さん(48歳)
(写真1)独り暮らしの倉根ちづさんと歩く。顔を覚え暮らしを知ることから医は始まる=長野県南相木村
医療を現場から再生しようと奮闘する医師がいる。
長寿と低医療費を両立させた「長野モデル」に医の原点があると説く。
山村の最前線で「権威を捨て、地域で患者と向き合おう」と若い医学生に呼びかけている。
----無医村だった長野県南相木村に10年間、家族と一緒に住みました。
人口1100人で39%が65歳以上。
しかし、80歳でも現役です。
村では多くの堂々たる人生を看取らせて頂きました。
農村には「お互いさま」「おかげさま」という支え合いの気持ちがあり、拝金主義では得られない豊かさを感じました。
----今年4月に同県佐久市の佐久総合病院に戻り、地域ケアの担当になりました。
佐久病院はJA長野厚生運が運営する10病院のひとつで、私の雇い主は農民です。
病院は緊急医療と健康教育を重視しています。
長野県の平均寿命は男性が日本一、女性は5位。
病床に伏す期間も短く、1人あたりの老人医療費は全国で最も少ない。
厳しい自然環境の中で健康を維持しているのは農民運動と一体になった独特の医療があったからです。
----どんな医療ですか。
佐久病院の院長を務め2年前に亡くなった若月俊一先生を先頭に、戦後間もないころからあぜ道で血圧を測り、医師や看護師でつくった劇団が村を回って健康管理を説きました。
医者であっても高給を求めず、「誰もが受けられる医療」を目標に「予防は治療に勝る」を愚直に実践した。
その成果が低コストの長寿県なのです。
----地域医療の現場から、何が見えてきましたか。
山村は次代の日本を映しています。
21世紀半ばに日本の高齢化率は40%を超える。
孤独の中で余命と向かい合う人をどうケアするか。
医療のあり方が問われています。
多くの都市住民が終末期を迎える[多死社会」が遠からず訪れます。
命を落とすような病気でも医療の進歩で延命が可能になった。
障害を抱え病院通いする人が確実に増える。
高度医療への期待を商業的に追求し続ければ、医療費は膨張するばかりです。
----長寿と低コストを両立した長野モデルは、各地で応用できるのでしょうか。
それには医療と福祉の壁を取り払ったプライマリー・ヘルス・ケア(PHC)という仕組みが必要です。
厚生労働省は大学病院など高度医療を行う3次医療、地域の拠点病院など2次医療、診療所や開業医など1次医療に役割を分けていますが、私たちが力を入れているのは「ゼロ次医療」。
保健師や介護士と連携して取り組む地域での包括的ケアです。
政府もここに人材を大量につぎ込んでほしい。
----そうした医療サービスは「臨床医より研究医が偉い」といった意識を変えなければ不可能でしょうね。
なぜ医者になるのか考えないまま、受験競争を勝ち抜き、患者をたんぱく質の塊のように見るのでは、血の通った医療にならない。
医療制度を市場原理で動かそうとすれば、もうからない診療やリスクを伴う仕事から医者は離れ、楽してもうける医療へと流れてしまう。
産婦人科や小児科の不足はそうして起きた。
利潤動機に委ねれば、医療はゆがむばかりです。
村に育てられた「医の伝道者」
(写真2)専門は内科。「診るべきは臓器ではなく、生きている人だ」=南相木村診療所
「本当はね、別の人と結婚するはずだった」。
8月の昼下がり、標高1100メートルの長野県南相木村を訪れた医学生たちは、88歳の倉根ちづさんの話に言葉を詰まらせた。
「約束した人はニューギニアで死んでね。
戦争が終わってシベリアから引き揚げてきた主人と結婚したけど、ずいぶんヤキモチ焼かれたよ」
採りたてのスイカやトウモロコシがちゃぶ台に並ぶ。
ちづさんは7年前に夫を亡くした。
孫のような世代に聞かせた「村の物語」は、色平流の医師養成講座のひとこまだ。
「学歴など無縁に、どっしり生きる人に出会うと世間知らずの学生は衝撃を受ける。
女房に言われるんです。
また悪の道に誘ってる、って」
秩序を外れ
医師の世界は、秩序に従順でないとふるい落とされる。
長野五輪の開催が決まり、公共事業が慌ただしく進んでいたころだった。
外国人労働者の多くは不法滞在。
病気になっても医者にかかれない。
支援に動くと、大変なことが分かったタイや周辺国から来た女性にHIV(エイズウイルス)感染者が多数いた。
佐久病院に入院させると病棟は大混乱。
看護師は恐れをなし回収できない高額治療費が経営の負担になった。
「患者を救うことが先だ」と奔走した。
当時の若月俊一院長は理解してくれ、外国人医療相談室を作ったが、先輩医師の不興を買った。
「研修医の仕事もろくにせず、趣味的活動に病院を巻き込むのか」
自分の熱意は、周りには迷惑だった。
93年春、佐久病院から離れた。
他の病院で地域医療に携わっていたが、3年後に佐久病院に呼び戻され同県南牧村のへき地診療所に赴任した。
若い診療所長を助けたのはベテランの女性保健師。
せっかちだった新米医師に村人との接し方を根気強く教えた。
無医村で30余年勤め、住民の健康を見守ってきた保健師に「医療を担うのは医者だけではない」と思い知らされた。
隣の南相木村で常駐医を求める声が上がると、今度は自ら進んで診療所長になった。
「風になれ」
好きな玉井袈裟男の詩集
「風のノート」にこうある。
「風は遠くから理想を含んでやってくるもの/土はそこにあって生命を生み出し育むもの/君が風性の人ならば土を求めて吹く風になれ」
農家は「土のひと」。
村の医者は「風のひと」。
山村の本当の暮らしを知らなければ患者に的確な処方はできない。
草刈りなど共同作業に加わり、洒を酌み交わし、深夜でも往診した。
やがて人々は診察室で自分史の断面を語るようになる。
医療問題をあぶり出す連載を新聞やネットに載せると、医の道に迷っている学生らが接触してきた。
年に100人近くが村を訪れる。
今春、佐久市の本院に戻ってからは、そうした学生のために、東京などで「出張講座」を開くようになった。
声がかかればどこでも出向く。
病院で診察しながら今も週1回、南相木村に足を運ぶ。
「実践があって学問が生まれた。
医学は医者だけが担ってきたことではないのです」
医療とケアは、地方の雇用の受け皿にもなる。
安心な老後と若者の職場を同時に築く「メディコ・ポリス構想」の旗を振る。
目指すは医療と地域の融合だ。
村で実現した明日の医療を都市へ----。
坊主頭が僧侶を思わせる「医の伝道者」は多忙を極めている。
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(チェックポイント)
「金持ちより心待ち」の人
「相棒」抜きに、色平さんを理解することはできない。
バングラデシュ出身の医師スマナ・バルア(愛称バブ)さんのことだ。
京大時代に訪れたレイテ島でバブさんに出会った。
フィリピン国立大レイテ校で医学生をしていた彼は助産師・看護師の資格をもち、村で出産を手伝ったり、衛生指導をしたりしていた。
「頭をガツンとやられた」。
色平さんがそう言うのは、バブさんが患者との会話で「診断」していたからだ。
自分には分からないが、表情やしぐさから病気を読みとった。
医師を志した色平さんにとって5歳年上の医学生は眩しかった。
出産で命を落とした叔母を見てバブさんは医者になると決意した。
日本に行ったが環境が違いすぎる。
機器も施設も、きれいな水もない故郷の村でできる医療を求めて島にやって来た。
日本には若月先生の病院があるよ」とバブさんに教えられ、色平さんは佐久病院の門をたたいた。
見習医となり、清水茂文・前院長の勧めで佐久に残る。
外国人HIV感染者を支援している時に再会した「相棒」は、いま世界保健機関の南アジア担当としてインドに駐在する。
異色の医師をバブさんは「何でも真剣に考える一生懸命な人」と語る。
二人の合言葉「金持ちより心持ち」が、色平さんの生き様を示している。
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社会知れば情熱がわいでくる
----開成高校から東大の理1は典型的なエリートコースです。なぜ中退したのですか。
恵まれたポストにうまくはまり込むことを良しとする東大の気風がイヤだった。
3年の夏に欧州を旅して住民自治や弱者への温かなまなざしを知り、衝撃を受けたことが影響したのだと思います。
1年ほど放浪して、医者なら人の役に立つだろうと京大医学部に入り直しました。
----はじめから村医者を目指していたのですか。
レイテ島でパブさんに会い、人の面倒をみるという人間の本源的な行為に気付きました。
どんなに優秀でも一人では生きられない。
人は支え合って生きてゆくものだと。 そこに医者の役割も見えてきました。
----農村医科大学を作る構想も温めていますね。
医師不足は深刻です。
日本は人口1千人あたりの医師が2人で、先進国である経済協力開発
機構(OECD)30カ国の27番目です。
大学の医局が人事権を握り、病院はお願いして医師を派遣してもらっていた。
地域で働く医師を自前で育てようという動きは当然のことです。
----医学生の教育に力を注いでいます。
医療改革は制度をいじるだけでは果たせません。
遠回りでも人づくりから始めないと。
成績が良い学生でも、どうやって日本が豊かになったか知らない。
途上国がどんな現状かも実感がわかない。
ぶつかったり、挫折したり、失ったりしないと自分が恵まれていることさえ気づかない。
医への情熱や優しさは社会を知ることがらわいてくる。